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プライベート(スペイン留学の思い出)

2024.06.01

グラナダの結婚式の思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

緑が鮮やかな季節になると必ず思い出すこと。 

華やかな場で貴重な経験ができた良い思い出ですが、自分の未熟さゆえに、文化の違いに居心地の悪さを感じたことも同時に思い出します。

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「グラナダの結婚式」(フェイスブックの過去の日記より)

スペインにいる時、結婚式を挙げた新郎新婦と招待客たちがリラックスした様子で教会の外に集まっているのをたまたま見る機会があるとラッキーと思いました。

女の人たちの服装を見るのが楽しみでした。

布一面に刺繡がされた大きなショール(マントン・デ・マニラ)をセニョーラが堂々とまとっているとそれはそれはゴージャスで迫力があるのですが、十代の女の子がそういうショールを肩にかけているのはとても初々しく、お母さんかお祖母さんから譲り受けたのかなと想像して、宝物を見せてもらったような気持ちになりました。

グラナダ留学中に結婚式に出席する機会に恵まれました。新郎新婦と面識がなかったのですが誘ってもらいました。

会場は、グラナダ郊外にある新郎の家族の別荘の素敵なお庭。 5月の終わりで花が咲き乱れていました。池もある広い庭でした。

神父様の前での誓いの言葉があり、参列者一同で見守りました。

スペイン語で結婚式のことをbodaボダといいますが、誓いという意味のvotoボト(英語のvote、vowと同語源)が語源なのだそうです。

そのあと、たくさんの料理が庭に運ばれてきていよいよパーティーが始まりました。

バンドの生演奏にあわせて新郎新婦も年配の方々も自然に体を揺らしていました。本当に踊る国民性なんだなーと思いました。

うちの両親や叔父叔母が踊る姿など到底想像がつきません。

「こういう時、この国では必ず踊り出すんだよね。やれやれ」と私は内心ため息をつきました。

私が苦手なことは、はしゃぐことと踊ること。

当時流行っていて日本でもヒットした「マカレナ」という曲のユーモラスな振り付けをみんな楽しげに踊っていました。

この国では引っ込み思案はマナー違反なのだと私は痛感しました。

セビジャーナスも演奏されたので、招待客たちはペアになって踊りました。 セビジャーナスは私も楽しみました。

パーティーの終わりに2階のバルコニーから新婦がブーケトスをすることになりました。映画みたいで素敵!

新婦がゲスト達に背中を向けて、ブーケを大きく投げました。

ブーケは池の中へ。ちゃぽん。一同あっ!

貴重な経験をできて、特に思い出に残る一日でした。

2024.05.16

スペイン語豆知識(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

私のような勘違いしている人、いませんよね?

いらっしゃらないとは思いますが、恥かく前に念のため。

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「 勘違いしていたスペイン語」(フェイスブックの過去の日記より)

フラメンコの衣装や肩にかけるショールには細かい房飾りの装飾がついていることが多く、この房飾りを「フレコ」といいます。

よく「フレコが長すぎる」とか「フレコが絡まった」と耳にしてきたので、これをフレコと呼ぶのか、とフラメンコを習い始めた高校生の頃に自然に覚えました。

大学3年でグラナダに留学しました。美容院に行きたくなり寮の子におすすめの美容院を聞きましたが、寮の子たちはグラナダ以外の土地の出身なので、地元に帰った時に行きつけのお店に行くと言っていました。

適当な美容院を探して行くことにしました。

行く前に「前髪を切ってください」とどのように言うのか辞書で調べました。

スペイン語で前髪は、flequillo。 

そこでハッと気づきました。 ということは、もしや、と思って遅ればせながら辞書で調べたところ、フレコとはflecoでした。

フレコは「振れ子」ではなかった! 振れ動くから振れ子だと勘違いしていました。 気付けてよかった。

さて、私が入ったグラナダの美容院は、接客の仕方が日本の美容院と違うところがいろいろあって面白かったです。

まず、美容師さんの手がガツンガツンと頭や顔や肩にぶつかる。 「ガツンガツンと」です。

そして、美容師さんは女性だったのですが、ドライヤーを台に置くことが面倒だったのか、ドライヤーを太ももの間に挟むので(吹出し口がこっちを向いていて)、それが笑いをこらえるのに困るほどおかしかったです。

2024.05.04

グラナダの美しい季節(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

今頃はグラナダにある庭園の花々がとてもきれいな時期ではないかなと思います。

グラナダの思い出話と一緒に、グラナダの歴史、スペイン語豆知識も少し。

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「グラナダのカルメン」(フェイスブックの過去の日記より)
グラナダにあるアルバイシンは急な坂道や迷路のような小路が多い古い地区で、白壁の家々が密集している様子がガイドブックなどで見られます。
そのような家以外に、中の様子をのぞけないくらいの高さの白い塀に囲まれたお屋敷もアルバイシンにはありました。
門の内側には憧れてしまうような美しい庭がありました。
木がこんもり繁っていて涼しさを感じ、手入れの行き届いた花々が咲いていました。

グラナダにあるこのような庭園を持つ邸宅を、「カルメン」といいます。
その美しさから女性名のカルメンにちなんで名付けられた、ではなくて、女性名とは全く関係なく、実際はアラビア語の「ぶどう園」が語源なのだそうです。
イスラム教徒に長く支配されている間にグラナダでは灌漑技術が発達したので、果樹園や庭がある家というのはグラナダの歴史を表しています。
カルメンはアルバイシンの他にも郊外の勾配のある土地に建てられていることが多いそうです。
1996年から1997年のグラナダ留学中は学生寮に住んでいましたが、1998年の半年間はグラナダの中心部から徒歩20分ほどの、急な坂道の途中にあるお屋敷にホームステイしていました。とてもきれいな庭がありました。
たしか5月。庭でパエリヤをごちそうになりました。
木陰は涼しく、庭のレモンの木からもいだレモンをパエリヤに振りかけて食べました。
心に残っている良い思い出です。

 

2024.04.16

スペイン人の名前のこと(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 先日、ビクトルエリセ監督の新作「瞳をとじて」を観ました。

出産間近の妻が、娘にはフアナと名付けたいと言うと、夫が「フアナは古くさい。エストレージャがいい」と言う場面がありました。

数年前に観た「ペトラ」という映画でも、主人公のペトラが自分の名前を「古めかしい名前でしょう?」と言っていたので、スペイン人の名前にも時代によって違いがあるのかなと思いました。


スペイン人の名前について思ったことを書いた投稿です。

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「スペイン人の名前のこと」(フェイスブックの過去の日記より)

グラナダに1年間留学していた時、100人のスペイン人女子学生と寮生活をしていました。

私の同期に当たる1年生の寮生22人のうち、マリアが5人いました。
日本人にとって、スペイン人女性といえばこの名前、というイメージが強い「カルメン」は、100人のうち1人だけでした。
男性名で多い名前はもしかしたらホセかもしれませんが、これは聖母マリアの夫のヨセフのスペイン語名です。

マヌエルも多い気がします。これはイエズスキリストの別名です。
イエズスのスペイン語名の「ヘスス」が多いことにも驚きました。親が子にヘススと名付ける時に畏れ多いという気持ちはないのかなと思ってヘススという名の本人に聞いたことがありますが、残念ながら何と答えてくれたかは忘れてしまいました。
人の名前から、ここはカトリックの国なんだなーと感じることはよくありました。
女性名に「アングスティアス(苦しみ)」や「ドローレス(苦しみ、悲しみ)」が多いことにも驚きました。マリアさまやキリストの心に寄り添う、ということなのでしょうか。

「マグダレーナ」も私にとっては意外な名前でした。
私はカトリックの学校に通っていたので(スペイン系の学校だったのです。縁とは不思議)、マグダラのマリアの話は知っていますが、ちょっと知ってる位ではなかなか娘にその名をつけられないな、と思います。
理解の深さが違うのでしょう。
中学か高校の頃、聖人の中でもマグダラのマリアは人気があると先生から聞いたことがありました。
聖人に対してそういう感情を持つのは面白いと思いました。
挫折を経験した人、完璧でない人の方が魅力的、ということかもしれません。

ちなみに私がようこと名付けられた理由の一つは、オノ・ヨーコさんと同じだからです(漢字は違いますが)。
「ようこ」だったら外国の人も呼びやすいし、オノ・ヨーコさんと同じ名前なら覚えてもらいやすいだろう、と親が考えて付けた名前です。
私はようこです、とスペイン留学中に最初に自己紹介すると、いろいろな国の人達から「ヨーコ·オノと同じ名前だね!」と言われました。
親が願った通りになったなあと驚きました。

2024.04.14

セビージャの春祭りの思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

娘に「セビジャーナスを踊っている人の絵を描いて」と頼んだらこういう絵を描いてくれました。

雑だけれどかわいい絵をささっと描くのが得意。

私の教室でも、最近になってセビジャーナスをペアで踊る練習を再開しました(コロナ禍の頃からやめていました)。 生徒さんも楽しそうです。

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セビージャの春祭りの思い出」(フェイスブックの過去の日記より)

4月になると毎年必ず思い出すのがセビージャの春祭り(Feria de Abril de Sevilla)。
私が行った日は小雨が降っていましたが、テレビやガイドブックで見たままの華やかな世界で感激しました。
たくさんのカセタ(テント小屋)がありました。
テーブルの上に飲み物や食べ物があって、ステージでは楽しそうにセビジャーナスを踊っていたりバンド演奏をしていたりショーをしている様子を外から見ることが出来ました。
そういうところはプライベートのカセタで仲間内だけが入れるところです。
入り口付近にいる人に「すみませんが入っても良いでしょうか···」と何軒か聞いてみると、「さあどうぞどうぞ、セニョリータ」とフレンドリーに招き入れられた、ということはな・く・て、「会員制ですので」と当然ですが断られました。
少しは期待していたのですが。
誰でも入れる公営のカセタは大にぎわいで、セビジャーナスを踊っている時に他の人とぶつかりそうになるのですが、それも楽しかったです。
グラナダに帰ってから寮のみんなにフェリアの感想を聞かれ、「馬の糞だらけで避けて歩くのが大変だった」と答えていたことを思い出しました(しかも雨でぬかるんでいましたし)。
もっと気の利いたことを言えば良かったなあと今更遅いですが反省。
セビージャの春祭りの始まりは家畜見本市だったそうで(だからFeriaなんですね)、上流階級の人は馬や馬車に乗って来たので、今も馬車や馬が多いのはその名残なのだそうです。
コロナで多くの国でお祭りを開催できませんが、伝統が消えずにお祭りを再び楽しめるようになってほしいですね。
(コロナ禍の2021年くらいの投稿)

2024.04.06

カーネーションの記憶(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 花屋さんではもう母の日に贈る花の宣伝をしていますね。

スペインの国花は赤いカーネーションです。十字架から下ろされたイエスを聖母マリアが抱いた時に、彼女が涙を落とした地面から赤いカーネーションが咲いたというお話があるので、それと関係あるのかなと思っています。

カーネーションといえば必ず思い出すことがあります。


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「カーネーションの記憶(スペインの寮の思い出)」(フェイスブックの過去の日記より)

きっとスペインで昔からずっと親しまれているのだろうと思う歌で、「クラベリートス」があります。
「可愛いカーネーションよ」という意味です。
クラベリートスをよく歌っていたのが、トゥナと呼ばれる男子学生の音楽隊です。
トゥナの一団は16、17世紀の学生の伝統的な服を着て、セレナーデをギターなどで演奏して歌います。
衣装も優雅でかっこよく、趣があって素敵でした
大学のいろいろなイベントでトゥナがクラベリートスを歌い、それに合わせ他の大学生たちも″クラベリートス、
クラベリートス....″と歌っていました。
ある日、私が住んでいた女子寮のホールにトゥナが来た時がありました。
(その日の朝食の時に、ある一人の面白いタイプの子が食堂に入って来るなり「チコー!(男子ー!)」と叫びみんなを笑わせました。日本の女子校と同じだなと思いました)
ホールにみんなが集まり、トゥナの演奏と歌に聴き入りました。
しばらくすると、男子達が女子達にダンスの申し込みをし始めました。
男子から差し出された手を女子が取ると、男子はホール中央まで女子をエスコートしました。
男子は女子の背に手をまわし、女子は男子の肩に手を置き、もう一方の手を軽く握りあって向かい合って踊り始めました。

私も早い段階で数人に申し込まれたのですが、その手のダンスの経験がなく恥ずかしくて断ってしまいました。

ノリの悪さでチャンスを逃す、これは若い頃の私のいつものパターン。
再び誘われることなくそのままとうとう壁の花・・・・。
皆さん、同じチャンスは二度と来ないのです!
ちなみにスペイン語で、壁の花になることを「七面鳥を食べている」と言います。
私が考えるには、パーティーで人の輪に入れず黙々と七面鳥を食べている様子が由来なのではないでしょうか(涙)。
クラベリートス、クラベリートス····。
尻込みしたことを悔やんでも後の祭り。
いつまで歌い踊れば気が済むんだと思いながら楽しそうに踊る人達を眺めている時間の居心地悪さといったら!
自分に対してももちろん、自分の子供達にもこれを覚えていてほしい。
「恥ずかしがらず、人目を気にせず、まずはやってみる」

2024.02.22

グラナダのセマナサンタ(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

少し早いですが、セマナサンタを思い出しました。

厳粛で壮大な宗教劇を大勢の人たちと共に見守り、一体感を感じた素晴らしい思い出です。

セマナサンタに関係するいろいろな単語も当時覚えたので、それも思い返してみました。

●パソ(キリストやマリア様の像が載った山車)

●コフラディア(カトリックの団体。セマナサンタの行列を取り仕切る。多分)

●コスタレロ(パソを担ぐ人)

●プレンディミエント(キリストが捕らわれの身になったこと)

●カピローテ(先のとがった頭巾)

●ナサレノ(セマナサンタの装束の人)

●エル・ナサレノ(頭文字が大文字で、キリストのこと)

●エル・カウティボ(頭文字が大文字で、キリストのこと)

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  「グラナダのセマナ・サンタ(1997年)」(フェイスブックの過去の日記より)

スペインの行事で特に心に残っているものの一つが、3月後半にあった聖週間(セマナ・サンタ)です。
サクロモンテでセマナ・サンタを見ようということになり、その日の夜遅くに友人とサクロモンテに行きました。
広々とした原っぱに幾つもの焚き火が燃えていて、それぞれの焚き火に数人が車座になっていました。
私達は、地元の友人同士だという若い人たちのグループに入れてもらいました。3月末の真夜中、火の気のないところにずっといたら凍えて絶対に耐えられませんでした。本当に有り難かったです。
普段は宗教を気にすることはあまりないけれど、セマナ・サンタの時は少し感傷的になるんだ、という話を焚き火を囲みながら聞きました。
それぞれの焚き火のグループはとても楽しそうでした。
当時、ニーニャ·パストーリの「トゥ·メ·カメラス」というフラメンコのタンゴがとても流行っていたのですが(確か車のCM にも使われていました)、それを手拍子しながら歌って、1人ずつ輪の中央で踊って次の人と交替していく光景を見て、あまりにも絵になるので感動しました。
午前3時頃、皆がわーっと動き出しました。私達も着いていきました。向かう先は教会です。
暗くて足元が危なかった記憶があります。
教会への道の途中、こっちが近道だと言って周りの若い人たちが次々と崖をよじ登って行くので私の友人たちもそれについていきました。
私はおとなしい子供時代を過ごし、お転婆な経験ゼロ。運動神経にも自信ありません。どうしよう··とためらっていると、知らない誰かが腕を伸ばしてくれたのでその手をガシッと握って引っ張りあげてもらいました。
教会の前で、十字架にはりつけにされたキリストの像と、聖母マリアの像が向い合わせになりゆらゆらと揺れていました。
息子の姿を見てマリア様はどんな気持ちだっただろうかとその場にいる一人一人がきっと思いめぐらせていたと思います。


数人が代わる代わる歌う「サエタ」という悲痛な唄に胸を打たれました。サエタはスペイン語で矢という意味です。
終わると皆がどっと帰ります。人の波にうまく乗らないと危ないので、今度はジャンプして崖を下りました。
帰宅は午前5時位でした。厳かで感動的な経験をしたことや、その他いろいろな興奮が混ざり、なかなか眠れませんでした。

2023.11.23

東方の三博士の日(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 グラナダの寮は授業が始まる前日にならないと入れなかったので、年末年始のイタリア旅行の後は、グラナダに帰る前にマラガに少し滞在しました。

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「東方の三博士の日」 (フェイスブックの過去の日記より)

スペイン留学中のクリスマスと年末年始はイタリア旅行をしていましたが、1月5日はマラガにいました。

1月6日が祝日で、その前夜に東方の三博士が子供たちにプレゼントを持ってくると言われています。

1月5日の夕方に大通りでパレードがあり、マラガに帰省中の子と一緒に見ました。

山車から沿道の人たちに向かってお菓子が投げられるので、ここがいい、あっちがいいとウロウロしてパレードを見る場所を決めました。


私は折畳み傘を手に持っていたのですが、鞄にしまうように言われました。

傘を開いてお菓子を傘の内側に入るようにしていた人がいて(大胆!)、他の人とトラブルになったのを前に見たというのです。

誤解されてスペイン人のあの早口でまくし立てられたら、もうたまりません。急いで傘をしまいました。


三博士に扮した人たちを指して、「あれがバルタサール、ガスパール、メルチョール」と教えてもらいました。

私はカトリックの学校にずっと通っていたのですが、三博士にそれぞれ名前があることを初めて知りました。

何十年たっても忘れられない得難い経験がマラガでもできました。

2023.11.21

スペイン留学中の年越しはナポリで(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

スペインでは、大みそかの12時の鐘に合わせて12粒のぶどうを食べて1年の幸せを願う、と大学1年の時に授業で習いました。

とても楽しそうな習慣ですが、私はスペイン留学中の年末年始はイタリア旅行をしていたのでそのuvas de la suerte を食べていません。
体が2つあればいいのに、と当時日本人留学生の友達が言っていて、本当にその通りだと思いました。

イタリアでの年越しも刺激に満ちていて一生の思い出になりました。

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「スペイン留学中の年越しはナポリで」(フェイスブックの過去の日記より)

年末年始はイタリアを旅行し、ナポリで新年を迎えました。
大晦日の夜に大きな広場へ行きましたが、爆竹が鳴り響く荒々しい騒ぎに圧倒されました。
ナポリを見てから死ねという名言がありますが、ナポリで死ぬかも、と一瞬思ったほどでした。
日本の厳かな年越しと全く違うのでカルチャーショックを受けました。
1月1日の昼間にナポリの町を歩いていると10歳にもならない位の男の子が私の足元に爆竹を投げ付けてきました。
ぎゃっと叫んで飛び退いてその子供をキッと睨んだら、向こうは私にウィンクしてきました。
なんて末恐ろしい子供!
そういうこともありましたが、イタリア旅行の中でもナポリは特にワクワクすることが多く、ポンペイ遺跡やカプリ島にも行って、面白いところだったなあとずっと心に残っています。

高台までかなりの距離を歩いて行って、そこからの眺めが思わずわーっと声が出たほど素晴らしかったです。

東方の三博士の日の前夜の1月5日にはマラガにいました。その時の思い出はこの次に。

2023.11.19

スペイン留学中のクリスマスはイタリアで(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 クリスマスといえば、

育児で大忙しだった頃、「クリスマスプレゼントは何がいい?」と夫に聞かれて「独りの時間が欲しい」と切実に訴えていた時期もありました。

サンタクロースから届くプレゼントが本や図鑑の時が多く、「サンタって欲しいものくれないよね」とうちの子供たちが小さい頃に兄弟同士で話し合っていたのをそばで聞いていて面白かったです。

大学3年の時のスペイン留学中のクリスマス休暇は、本当に貴重な経験でした

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 「スペイン留学中のクリスマスはイタリアで過ごしました」

グラナダ留学中のクリスマス休暇で、私はローマ、ベネチア、ナポリを観光旅行しました。
ローマにはクリスマスイブの夜に着いたのですが、お店がどこもかしこも閉まっていて驚きました。
イタリアでは、クリスマスは日本人にとってのお正月のような大切さなんだと知りました。
そしてさっそく困ったことが起こりました。
グラナダから電話で宿泊予約したはずのホテルで、予約名簿に名前がないと言われてしまったのです。
もしかして野宿することになるのかと思いましたが、ホテルの人が「大丈夫。心配しないで」というようなことを何度もイタリア語で言いながら、他の何ヵ所かのホテルに電話して空いてる部屋を探してくれました。
20数年経てば、これもクリスマスの良い思い出です。
レストランがどこも閉まっていて、小さなピザスタンドで買って立ち食いした一切れのピザが本当に美味しくて身に沁みました。
これ以上に美味しいピザはないと思いました。
今でも人生の中でいちばん美味しかった食べ物の1位か2位がこの時のピザです。
(ちなみに1位を争うのが、フランクフルトーマドリッド間のルフトハンザ航空の機内食。大学3年になる前の春休みの、初海外旅行の時でした)
あまりにも美味しくて、次の日にも行きました。
一切れの大きめのピザが残っていて、ちょうど新しいピザがガラスケースに入ったところだったのですが、最後の残りのピザを渡されました。


そっちの熱々の方がいいんですけど、と言えませんでした。
前の日に食べたピザの二倍近い大きさでした。
冷めていて全く満足感がありませんでした。冷めたピザほどつまらないものはないと思いました。
(そういえば、日本で「冷めたピザ」という言葉が話題になったことがありましたね。覚えてますか?知ってますか?)
ベネチアはとても寒かったです。ベネチアのことを思い出そうとしたら運河に停泊するゴンドラの揺れる音が今耳によみがえってきました。
振り向けばカフェがある、というくらいに町にカフェがたくさんあった記憶があります。手足がかじかんでカフェに入り、イタリア留学中の日本人学生とおしゃべりしたことが楽しい思い出です。
年越しはナポリでしました。その思い出はこの次に。

2023.11.16

スペイン留学生活最後の日(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

少し前に左膝にかなりの怪我をしてしまいました。

この傷だけで済んで本当に運が良かったと感謝すると同時に、「怪我は一瞬」と ぞっとしました。

右膝にも大きな傷跡があって、両膝にある新旧の傷が「油断禁物。一寸先は闇」と時々自分を戒めています。

右膝の古い傷は、25年以上前のグラナダ留学最後の日につくったものです。

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「スペイン留学生活最後の日」(フェイスブックの過去の日記より))

日本に帰る前日に強盗に遭ってしまいました。
シエスタの時間にアルバイシンを歩いていて気が緩んでいました。
あっと思った時にはもう遅かったです。
貴重品は持っていなくてフラメンコシューズを入れた半透明のビニール袋だけを持っていたのですが、首を絞められて、向こうの方に見えたアルハンブラ宮殿がぐるんと一回転しました。
約1年間の留学生活最後の日でしたが、日本語しか出てきませんでした
たーすーけーてー!!と命がけで繰り返しました。
全身から血が噴き出しているような感覚だったのですが、立ち上がった時に怪我しているのが右膝だけだとわかり、あれ?と思いました。
友達の家に行って膝を消毒して包帯を巻いてもらい、寮まで歩いて帰りました。
二度と来るかこんな国、と思いながら歩いている途中にも血が止まらなくて包帯も緩んできて、すれ違う多くの人達が心配そうに見るだけでなく声をかけてくれました。
この近くに自分の家があるから包帯を巻き直してあげると言ってくれる人もいたり、お店の人達は″うちに入って入って″と言ってくれました。
車の運転手やバスの乗客も″おーいどうした″と声を張り上げ、文字通り四方八方から声をかけられました。
自分では痛さよりもショックの方が大きかったのですが、血をぽたぽたと流しながら歩く女の子....。
よほどすごい光景だったようです。

留学中にいつも言われていた″チニータチニータ″の声とは全く違う真剣ないたわりの声を聞き、私はずいぶん複雑な気持ちになりました。
翌日、マドリッド行きの飛行機で席が隣になったシスターが、まだ血がにじんでいる私の膝を見て、役に立つかもと言ってティッシュをくれました。
最後の最後まで優しい人に会えたと思いました。
日本に帰ってからも、後ろから急に腕をつかまれる夢を見てはっと起きることが何度かありました。
油断大敵、もう馴れたと思った時がいちばん危ないと痛い思いをして理解しました。
(私がすごく叫んだので犯人は捕まりました。)

2023.11.06

日本とスペイン、子供との接し方(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

海外駐在中に出産し、子供が小学校低学年の頃まで海外にいた友人から「うちでは、子供たちが高校生になった今でもハグもするしキスもするよ」と聞いて、へえーと驚きました。

私なんて長男の手をにぎった記憶がしっかりとあるのは幼稚園年長の初めの頃まで。

娘を乗せたベビーカーを押して次男をだっこしながら買い物袋を持ち、いつも私の両手は塞がっていたのですが、長男は淋しかったかもと今更ですが思っています。

スペイン留学中に、親子の関係について寮の子たちと話し合ったことを思い出しました。

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「日本とスペイン、子供との接し方」(フェイスブックの過去の日記より)

日本では親子で抱き合ったりキスしたりしないと言ったら、スペインの寮の子達はとても驚いてました。
「ケ·フリオ....(なんてよそよそしいの)」と心から憐れむように言われました。
赤ちゃんも抱っこしないのかと聞かれた時はあまりに極端な発想なので笑いました。
今は大変な育児の時期が過ぎて私にもかなり自分の時間がありますが、あんなに抱っこしておんぶして子供と一体だったのにもうあれほどの近さで触れ合うことがないんだなと思いました。
いくらこちらがハグしたいと今になって思っても、そういう習慣が日頃からないと思春期を迎えたらもう無理ですから。
話は20年以上前のスペインの女子寮に戻ります。
親子間の信頼関係が薄いのではないかと一人の子から真顔で言われて、私は驚いて「ケ·バ!そんなことは決してない」と言いました。
そして、それぞれの親子関係、とりわけ父と娘の関係をもう少し深く話しました。
ハグしないからといって親子間の信頼関係が薄いことは決してないと言ったのですが、
「でも、痴漢に遭った場合は父には特に言わない」と私が言った時にはスペイン人の子達からなぜ言わないの?ととても驚かれ、どうしてどうして?と一斉に質問攻めされました。
「その気持ちわかる」と言ってくれた子もいましたが、その場にいた5、6人のスペイン人の子達のほとんどが「そういう目に遭ったらまずお父さんに知らせる」と断言していたことが印象的でした。
この話は自分が親になってからもちょくちょく思い出します。
ママ友にも「若い頃にそういう嫌な経験をした時には父親に話したか」と聞いてみると、恥ずかしくて言わなかった、父親とそういう話題について話す発想がそもそもなかった、という人が多いです。
親子間でも、相手に心配かけたくないと遠慮する気持ちが強いのかもしれません。
親としてはいちばん話してほしいことを、私は親に話してなかったな、ということを自分が親になってから気付きました。
自分達の家が、子供たちが何でも相談しやすい雰囲気なのかなと振り返りました。
(2019年くらいのフェイスブックの投稿)

2023.10.24

スペインで初めての仮装(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

ハロウィンで仮装しますか?

大人になってから仮装したことありますか?

私はグラナダの女子寮の新入生歓迎会でヤシの木になりました。

これが人生で最初で最後の仮装だったと思います。

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 「スペインで仮装」(フェイスブックの過去の日記より)

入寮して数週間経ったころ、新入生歓迎会(novatada)がありました。

これは寮に入った新入生にとって避けて通れない試練です。

その時期に、顔に落書きをされた男子学生が外を歩いているのをよく見かけました(これは全然おとなしい方だと思います)。

新入生歓迎会においては上級者からの命令は「絶対に従わないとならない」もので、女子寮なので穏やかな方でしたが、陽気に見えるスペイン人のティーンエイジャー達でさえ、数日前から緊張して憂鬱そうな顔をしていました。

命令の一つが仮装でした。
歓迎会の前日にひとりひとりへの仮装の指示が発表されました。
私への仮装の指示は「palmeroヤシの木」でした。
フラメンコで手を叩く男性のこともpalmero(女性はpalmera)というので、「これは木の方だよね」と確認しました。
他の人達は、ピンチート(爪楊枝に刺さったおつまみ)、ボカディージョ(フランスパンのサンドイッチ)、有名人やドラマの主人公等に仮装しました。そういえばティオペペもいました。


仮装のための段ボール等の材料を集めにみんなで近所のお店を回りました。そのため私はフラメンコレッスンを休みました。


仮装以外にやらないといけなかったことは、各々指定された先輩へのプレゼント(小物入れになる箱)の手作り、それと、お芝居や楽器演奏や歌の披露でした。私はセビジャーナスを踊りました。


歓迎会は夕食後に広い玄関ホールで行われました。
まずは仮装した姿を見せて笑われて、そのあとの準備のためいったん部屋に戻った記憶があります。

そして、ここからが恐怖の歓迎会。
先輩たちは皆サングラスをして黒い帽子や黒いマフラーで表情を隠し、黒ずくめの服を着て床にあぐらをかいて車座になり、新入生たちを待ち構えていました。

最初は誰も笑いも喋りもしないシーンと静まり返った中で(先輩たちの演技)、ひとりずつ輪の中央に出て行って芸を始めるのです。
想像するだけでぞっとしますよね?
みんな覚悟を決めて、この雰囲気を振り払って先輩たちを笑わせようと頑張りました。
恥ずかしいからやらない、という子がいなかったのだからすごい国民性だなと感心しました。
(途中から先輩たちが急に手拍子を始めて一気に盛り上げてくれる、というのが毎回のお決まりの流れでしたが)


そういえば、「こんなトンテリア(馬鹿げたこと)に付き合っている暇はない」と歓迎会前日に不機嫌そうに言っていた子がいましたが、本番では頑張って歌って踊っていました。
これはお遊びなのだから、泣いたり怒ったりしては駄目だよと私にアドバイスしてくれた子もいました。
陽気なだけでなくて、自分をコントロールできて大人なんだなと思ったことを思い出しました。
私も、とにかく無我夢中で乗り切った、よく頑張った経験でした。

2023.10.19

たまごっちの思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

最近、Wi-Fi機能が搭載されたたまごっちが発売されたとか。

一時期は一世を風靡したたまごっち。

実は、私もかなり早い段階で注目していたのですよ。 

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「たまごっちの思い出」(フェイスブックの過去の日記より)

1996年から1997年にグラナダ大学付属のセントロ・デ・レングアス・モデルナスで勉強しました。

会話クラスは少人数制で、私以外にはアメリカ人が数人、イギリス人が数人、オランダ人、フィンランド人、ノルウェー人がいました。

毎週一人が交替でリーダーになり、話し合いのテーマを決め授業を進める日がありました。

自分の国の問題点などを挙げて、みんなはどう思うか、と話を進める人が多かったです。

私に初めてそのリーダー役が回ってきた時、今日本で話題のことって何なんだろうと考えました。

当時グラナダでは、キオスクで週一回、日本の新聞が1種類だけ買えました。

日本にいる友達に聞いてみようと思って電話しました。

当時は、文系人間にとってはメールはまだ馴染みがなくて、私は友達や家族に手紙を書いて送っていました。

(家族が出て本人がいなかったら電話代がもったいないから一人暮らしの子に電話しよう)

「もしもし。今スペインから電話してるんだけど」

「えー!本当に?」

「今日本でいちばんの話題ってなに?」 

「うーん。猿岩石が日本に帰ってきたことかな」

私はお礼を言って電話を切りました。

ああどうしよう、授業は来週だ・・・

テーマが決まらず悩んでいたある日、日本人留学生の家で日本の週刊誌を見ました。

そこにはたまごっちというゲームの試作品についての話題が。

記事によると、「試作品を使ってみた女子高校生たちからの評判は上々。近々発売」

ペットを飼う手軽な疑似体験。命を遊びにするなんてとんでもない話。こんなの絶対おかしい。みんなに聞いてほしい。これを授業で話そうと決めました。

案の定、たまごっちはみんなの常識、想像をはるかに超えていて、説明に苦労しました。

想像が出来ないのでどう反応していいのやら、という様子で、

「なにが面白いんだかさっぱり理解できない」

「売れるわけがない」

「私の国ではそんなもの流行らないわ」

欲しい反応がもらえず明らかに小馬鹿にされていることがわかり、あーあ失敗したと思った苦い記憶です。

そして月日は流れ半年後。1か月後には日本に帰るという頃。

寮のスペイン人の子から、「クラスの男子が日本生まれのの面白いゲームを持ってきていたよ」と聞きました。

そう、たまごっち!!みんなで興味津々で取り囲んで見たそうです。

日本人の発想はすごいね、と褒めていました。

日本で爆発的に流行り、世界各地に一気に広まったようです。

「私の国ではそんなもの流行らないわ」と言ったのはフィンランド人の子でしたが、そのフィンランドでたまごっちのための”合同葬儀”が執り行われた、というニュースを日本に帰国してすぐにテレビで見ました。

一時期は一世を風靡したたまごっち。

結局私はいまだに実物をそばで見たこともなく触ったこともありません。

2023.10.18

グラナダの寮に入って最初に知った新しい言葉(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「寮に入って最初に知った新しい言葉」

グラナダの学生寮に入った初日、「こっちに来てから何回ナンパしたか」といきなり寮の女の子たちが緊張している私に向かって聞いてきました。

何回ナンパされたか、ではなくて何回ナンパしたかと聞くところがこの国らしいのかなと思いました。

ligarは縛る、結びつける、関連付ける、という意味の動詞ですが、口語ではナンパするという意味もあります。

このことをふと思い出したので、もう何十年の前のことですが、女子寮の明るい華やかな雰囲気とかあの子がモテモテだったなーとかいろいろ思い出しました。

ちなみに、私立の語学学校の授業初日に習った言葉がchocolate(チョコレート 大麻の隠語)とcamello(らくだ 売人の隠語)だったので、日本で頑張って勉強していても知らないままの重要単語がたくさんあるなと思いました。

2023.06.29

グラナダでの寮生活の思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

つい最近、「自分の記憶をよく耕す」というある人の言葉を新聞で読み、私は感動しました。

自分の記憶の庭に育っていくものこそ人生なのだそうです。

★~★~★

 「グラナダでの寮生活」(フェイスブックの過去の日記より)

1996年から1年間グラナダ大学付属の外国人コース(セントロ デ レングアス モデルナス)で勉強しました。
スペイン人女子大生100人と寮生活をしていました。外国人は私一人でした。
グラナダには女子寮、男子寮、男女一緒、大小いろいろな規模の大学寮がありました。
ある大人数の男子寮で親睦を深めるための「チーム対抗借り物競争」があり、″女子留学生ひとり″が必要だから来てくれと言われ、その男子寮まで走りに走ったことはとても楽しい思い出のひとつです。
イギリス人の友人は全部で10人くらいのこじんまりとした寮に住んでいて、私にはこういう寮の方が向いていたのになと羨ましく思いました。
私がちょっとヘマをしたり何か言うとそれがすぐに寮全体に広まっていたりして、帰宅恐怖症になった時期もあり、私の学生時代のスペイン留学は楽しさと辛さが半々でした。
もう1回寮生活をしたいか?
今だったらもっと楽しめるかもしれないと今更考えても仕方ありませんが、
もし自分の子供たちが外国での寮生活をしたいと言ったら、絶対に経験してほしいと迷わずに背中を押すと思います。

2023.06.27

スペインの迷信、おまじない(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

そうそう、こういう話もあったなと思い出しました。

★~★~★

「スペインで聞いた、迷信やおまじないの話」(フェイスブックの過去の日記より)

グラナダ留学が終わりに近づいたころ、13日の金曜日の飛行機を予約したと母に電話で伝えたら、縁起が悪いから別の日に変えてほしいと言われました。
予約したところに行き直してそのことを話したら、スペインで縁起悪いのは「13日の火曜日」だから心配ないと言われました(でも飛行機を変えてもらいました)。
13という数字は「最後の晩餐」が13人だったことに由来しているそうです。
火曜日(スペイン語でマルテス)が縁起悪いとされている理由は、ローマ神話の軍神マルスに関係あるようです。
スペインに「火曜日には結婚するな。船にも乗るな。」ということわざがあります。
自分の国のおまじないや迷信の話を他の国の人達とお互いに紹介し合うのは面白かったです。
びっくりするほど違う場合もあって興味深く、共通点があった場合も嬉しくなりました。
スペインで聞いた迷信、おまじない。
●黒猫が自分の前を横切ったら縁起が悪い。でも自分に向かって歩いて来たら、智恵を授けてくれるという意味で縁起が良い。
●まつ毛が抜けたら、悪魔に取られないようにそのまつ毛を鼻先に乗せて吹き飛ばす。
●縁起悪いこと、不吉なことを避けるために木製品を触る「Tocar madera」。

2023.06.11

初めて見た闘牛(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 大事なことを思い出しました。スペイン留学中の印象的な思い出のひとつです。

★~★~★~★

「一度だけ見たスペインの闘牛の思い出」(フェイスブックの過去の日記より)

その日は、アイドル並みの人気がある闘牛士が登場する日でした。
「彼はかっこいいけどアルテ(技術、芸術)がないね」等と言う人もいて、闘牛好きな人達にとっては、それぞれ贔屓にしている闘牛士がいるようです。
闘牛場の外で牛乳を売っていました。闘牛と牛乳の組み合わせが面白かったです。
闘牛場に牛が躍り出て来た時はカッと全身が熱くなりました。

私が知っている牛とは大きさも姿も全然違い、まるで怪物のように見えました。
わたしが座っていた一番後ろの席にまで駆け登って来たらどうしよう、生きて帰れないかもしれない、と闘牛を見に来たことを本気で後悔しました。それほどの迫力でした。

観客達が大声で叫んだり口笛を鳴らしたりする反応が、いったいブーイングなのか賞賛なのかわかりませんでした。
でも、闘牛場全体が静まり返る瞬間もありました。
これ程多くのスペイン人が集まっているのにこの静寂を体験することはすごいことに違いない、と思いました。


闘牛には決まった流れがあり、いろいろな役割を持った人達が現れて、衣装も、手に持つ道具も違います。
闘牛を観る前に調べておくと良いと思います。
見終わった後の自分自身の気持ちも違うと思います。

最後に賞賛の印として、多くの人達が白いハンカチを振っていました。
なんと、白い下着を振り回しているファンがいて、目を疑いました。
もちろん、一部のファンの行き過ぎた行動で、そばに座っていたスペイン人達は「恥ずかしい」と眉をひそめていました。

この闘牛観戦に意外なオマケがつきました。
テレビ中継されていたようで、「ヨーコ、映っていたよ」と数人から言われ、嬉しかったです。

2023.06.01

ファンダンゴの思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「ファンダンゴの思い出」(フェイスブックの過去の日記より)

高校2年生でフラメンコを習い始め、最初に習ったのがセビジャーナスで、次がファンダンゴ・デ・ウエルバ。

幼稚園の頃から頑なに歌うことを拒んでいて歌にはずっと苦手意識を持っていたのですが、歌を聴くことは好きで、フラメンコのCDの歌詞カードもじっくり読んだり歌詞を調べることは好きでした。

「ある冬の夜、君と出会った時雨が降っていて君に傘をさしかけてあげたね・・・」

このファンダンゴの歌詞が好きでした。

大学3年でグラナダに留学しました。 普段の生活で驚いたことのひとつは、 スペイン人はちょっとやそっとの雨では傘をささないこと。 若い男の人はかなりの雨でも平気で濡れて歩いていました。 乾燥している気候だから服や髪の乾きが早いのだろうか?

はたとあのファンダンゴの歌詞を思い出しました。 傘持たないやんけ。

2023.04.12

初めての海外旅行はスペイン(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「初めてのスペイン旅行」(フェイスブックの過去の日記より)

大学3年になる前の春休みに、2週間でマドリッド、セビージャ、グラナダ、バルセロナを廻りました(1996年)。
初めての海外旅行で初飛行機。
一緒に行く旅行慣れした友人が「ルフトハンザ航空で行こう」と言いました。
ロフトハンズ?2つのお店を合わせたみたいな変わった名前だなと思いました。私は航空会社を選べることも知りませんでした。
ドイツ人の習慣なのか偶然だったのか、着陸した時に大勢が拍手したので、飛行機ではそうするもの、と私はしばらくの間思ってました。

フランクフルトからマドリッドで食べた機内食がとても美味しく、今でもその時の機内食が今までの人生の中で1番か2番に心に残る食事と思うほどです。

機内の窓からスペインを見た時、「赤茶けた大地だー」と心が震えました。

毎晩フラメンコを観るため、旅行中の食事は極力節約しました。

スペインでは店員さんの接客態度が日本と違うので最初はショックを受けたり驚いたりしていたのですが、旅行の半ば頃にマクドナルドに入ったら店員さんがニッコリしてきたので逆に驚きました。マクドナルドでアルバイト経験のあった友人が「スマイル0円は世界共通だ!」と感動していました。
現地のフラメンコは期待外れのショーもありましたが、グラナダのサクロモンテで観たフラメンコは素晴らしく、踊り手のあごから滴り落ちる汗が今でも脳裏に浮かびます。

3月後半のグラナダは朝と夜は寒くても昼間は暑く、日本人留学生らしき人が半袖Tシャツにジーンズで腰にセーターを巻いてサングラスをして歩いているのに憧れ、「絶対に私もあの格好をしよう」と思いました。

私がグラナダを観光している時に、留学許可を知らせる電話が日本の大学から自宅にありました。
数ヵ月後に再び来ることになるグラナダが大好きになり、留学への楽しみがより大きくなった旅行でした。

2023.02.28

グラナダ留学の記憶をたどる(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダ留学の記憶をたどる」(フェイスブックの過去の日記より))

大学ではスペイン語スペイン文学を専攻していました。
私の通っていた日本の大学から毎年ひとりの学生を受け入れてくれる女子寮が、グラナダにありました。

私は高校生の時からこの寮に入ることを目指していました。

大学3年生の時の留学前、担当のスペイン人の先生から「あなたのこと電話で言っておいたわよ」と言われました。入寮のための正式な書類などないのでしょうかと聞くと「毎年のことだからなくて大丈夫」と言われました。
私にとっては初めてのことで人生の一大事なのに、と思いました。
おおざっぱというかおおらかだなーと思いました。
9月からグラナダ大学付属の外国人コースが始まるので、8月の終わりから寮に入ることになっていました。
グラナダには7月末に着きましたが、ちょうど今頃地図を頼りに初めて寮まで行ったと思います(←2021年8月初めにフェイスブックに書いています)。あいさつをしようと思い寮に向かいました。
夏期休暇中なので正面玄関はぴったり閉じていてドアには厳めしい金具がついていて(aldaba ライオンの頭部などをかたどったドアノッカー)、とても緊張しました。

寮へのあいさつはやっぱり明日にしようかなどうしようかな、と怖気づきましたが自分で自分に往復ビンタをして勇気を奮い起こし、インターホンを押しました。
出てきた年配の男性二人に挨拶と自己紹介を考えておいた通りに言いました。
私が言い終わると、「あなたが行きたいところはこっちだね」と案内してくれたのは、よく似た隣の建物。
私は間違えて隣の男子寮に行っていました。
こちらのセニョリータが間違えてうちに来ましてね、あらあらそうでしたか、というようなやり取りを聞いて、寮の中でコーヒーを頂き入寮日を確認して帰りました。
とてもほっとしました。
何気ないことでも外国では一仕事でした。

2022.10.26

グラナダの語学学校で最初に習った単語(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダの語学学校の初日」(フェイスブックの過去の日記より)

夏休み中は他の留学生とアパートで生活して私立の語学学校に通っていました。
語学学校初日の授業前、緊張して教室で座っていました。
先生が教室に入って来る時にドアに肘をぶつけ(生徒を笑わせるためわざとやったように見えた)、大袈裟に肘を抱えて一言叫びました。
「C×××!」
授業初日の先生の第一声がわからない!いきなり知らない単語!
辞書で調べて更に驚きました。語学学校で最初に知った単語がこれとはね。
日本でスペイン語を教える先生方はそういう言葉は使いません。
実際には、若い人同士の会話では15分に1回はそれを言ってたような...。
日本で一生懸命勉強しているのと現地で生活するのではこんなに違うんだなと強く思った語学学校の第一日目でした。
そして最初の授業で先生は、チョコレートには大麻、らくだには売人という意味もあると教えてくれました。
最初の授業で習ったことがこれなので衝撃的でした。
留学生は特に気を付けないといけないと、さっきまでおどけていた先生が真剣に言いました。
憧れのスペイン生活が遂に始まったけれど、実際は憧れだけでは済まないのだと思って怖さも感じました。

2022.10.25

誰でも知っている芸能人は?とみんなで考えた(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「誰でも知ってる有名人は誰?という質問」(フェイスブックの過去の日記より)

1996年にグラナダ大学附属のセントロ·デ·レングアス·モデルナスで勉強していました。
会話クラスは細かく分かれていて少人数制で、私のクラスにはアメリカ人とイギリス人が数人と、オランダ人、デンマーク人、ノルウェー人、フィンランド人がいました。
先生が「誰でも知ってる歌手や俳優を2人挙げるなら誰だと思う?」と聞きました。
全員異議なくマイケル・ジャクソンとマドンナに決まりました。
先生は毎年この質問を留学生にしていたようで、回答が6、7年連続で変わってないと感心していました。
洋楽に疎い私でもこの2人の顔と名前は一致していて、歌だって知ってます。
今の時代だったら誰でしょうね。誰だと思いますか?

2022.10.25

グラナダで好きだった場所(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダで好きだった場所」(フェイスブックの過去の日記より)

私はカルトゥジオ修道院(El Monasterio de Cartuja )が好きでした。
町の中心から離れたところにあり、歩いて30分くらいかかりました。
グラナダでは買い物していてもしょっちゅう知っている人に会ってしまい寮では100人のスペイン人学生の中で私は唯一の外国人だったので目立ってしまい、きゅうくつに感じることもよくありました。
わーっと叫びたくなる時もあり、独りになって息抜きしたい時にはカルトゥハ修道院に行きました。
当時は修道院までの道のりは原っぱと畑が多く目の前には青空が広がり、「憧れのアンダルシアにいるんだ」という気持ちにさせてくれました。のんびり歩いているだけでピクニック気分になれました。
知っている人に誰にも会わない解放感もあり、帰り道ではすっかりリフレッシュして寮に戻っていました。

2022.10.21

ホームシック(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダの寮生活の思い出」(フェイスブックの過去の日記より)

日本で大学が夏休みに入ったと同時にスペインに来て、新学期が始まるまでは私立の語学学校に通っていました。
新学期からは女子寮に入り、グラナダ大学付属の外国人コースに通いました。
他の子たちはスペイン各地から来ていましたが、大半はアンダルシア出身でした。
私はスペイン人女子大生100人の中で唯一の外国人でした。
寮生活の第一日目にミサがありました。寮に礼拝所がありました。
スペイン人の新入生たちの保護者達も出席しました。
語学学校での生活の時は、私の周りにいたのは留学生ばかりでした。
あまり上手くないスペイン語でもいろいろな国のひとたちと楽しくコミュニケーションをとりながら過ごしていて外国生活にももう慣れたと自分では思っていたのですが、このミサの時に始めて文化と宗教の大きな違いを意識して、急に孤独感が襲ってきて心細くなり思わず涙が流れて来ました。
その時、隣にいた寮生が私が泣いていることに気付き、「オンブレ!」と言ってぎゅうっと抱き締めてきました。
オンブレは男という意味です。
優しくされると余計に泣けてきて涙が止まらなくなり、息苦しいほどに抱き締められながら「オンブレ?男であれ?女々しく泣くなという意味か?」と考えていました。
こういう場合のオンブレは、性別に関係なく、「おやまあ。やれやれ。」という感じです。
全身で気持ちを表現するスペイン人との生活は私にとっては馴染むのに苦労しましたが、本当に優しくて感謝してます。

2022.10.21

東京は夜の7時(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダの夕べ」(フェイスブックの過去の日記より)

ピアノを習っている娘が、ドビュッシーの「夢」を練習しています。
ドビュッシーの作品で「グラナダの夕べ」という曲もあるんですよ。
それとは別に、個人的にグラナダの夕べを思い出す曲があります。
1990年代後半、授業やフラメンコレッスンが終わった後に友人とカフェにいると、店内に″東京は夜の7時~″と日本語の歌がたまに流れて来てとても驚きました。
とても耳に残る覚えやすい歌なのに私は日本では一度も聞いたことがなく、なぜスペインで流れているのか不思議に思っていました。
ある日本人留学生の情報によると、「どうやら流行に敏感でお洒落な日本人の間ではよく知られている歌らしい」とのことでした。
私が知らなかったわけだと納得しました。
関西からの日本人留学生が「なにが東京やねん。めっちゃださい歌やな」と言っていたのが可笑しかったです。

日本人留学生たちと気楽に日本語で話したり、拙いスペイン語、英語でいろいろな国のひとたちと楽しくお喋りしていたグラナダのカフェでの夕方のひとときを思い出す時、私の頭の中ではピチカート·ファイブの「東京は夜の7時」が流れます。
(2019年、娘12歳)

2022.10.15

グラナダの寮の思い出(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダの女子寮の門限の話」(フェイスブックの過去の日記より)
私が1年間過ごした女子寮は比較的門限が厳しかったのですが、月曜~木曜が22時、金曜が午前1時、土曜が午前3時、日曜が12時だったので私はとても驚きました。
金土日は22時にいったん門が閉まった後は00分にだけ門を開けてもらえるので、そのタイミングに間に合わなかったら1時間後の次の開門まで待ちました。
私が留学した年はちょうど土曜日の門限が1時間遅くなった年で、「長い間交渉し続けていたのよ」と上級生たちが喜んでいました。
私がグラナダに留学している間、日本にいる母は、スペインが昼の時間帯だと私が無事でいるか心配で夜眠れなかったそうです。そして私が寮で寝ているであろう夜の時間帯に安心して寝ていたそうです。
娘がそんな遅い時間まで外国の町を歩いていたとは、母は夢にも思わなかったでしょう。

私が帰国してから暫くの間は、母は昼間にウトウトしていたので、習慣で夜に眠れなくなってしまったのだろうと申し訳なく思いました。そして、そんなに心配なのに留学させてくれてとても有り難く思いました。

2022.10.12

寮生活が始まって間もない頃の失敗(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「寮生活始まって間もない頃の失敗」(フェイスブックの過去の日記より)
住んでいた女子寮では、私は100人のスペイン人女子大生の中で唯一の外国人でした。
安全面もとてもしっかりした寮で、授業などから帰った時にガラスがはめ込まれた鉄格子の扉の前に立つと、門番の人が顔を確認してから扉を開けてくれました。
夜中は更に、鉄板が張られた重厚な扉がいちばん外側に閉められ、二重の扉で守られました。
その寮に入れば両親も安心すると思って、私は高校生の時からそこに入ることを目指していました。
寮生活が始まりまだ間もない日曜日に、早朝のバスに乗ってセビージャまで日帰り旅行をしようと考えました。
早起きして、みんなが寝静まっている寮の廊下を通りホールまで来て、鉄格子を開けて鉄板の扉を自分で開けようとしました。
いちばん外側の鉄の扉が開きません。
「ああそうか、寮には朝も門限があるんだ」とやっとその時気付きました。
うっかりしてたなーと思い部屋に戻ろうとしたら、背後でガチャンという音が・・・。
鉄格子の扉が自然に閉まってしまい、私は2枚の扉の間に取り残されてしまいました。
オイガ~(聞いて~、すみませんが~)と大きな声を出しても、部屋は上の階なので誰も起きてくる気配がありません。
こんなところを誰かに見られたら物笑いの種だと思って1時間近くへたり込んでいたら、いちばん早く起きてきたお年寄りのシスターが驚いて鉄格子を開けてくれました。
ああ、最初に起きてきたのがシスターで良かった、とその時思いました。
計画していたセビージャ行きのバスにも乗れなかったしもう出掛けるのはやめようと思いましたが、シスターが鉄の扉を大きく開けて「ブエン·ビアヘ!(良い旅を!)」と元気に言いました。
部屋に戻って寝るとは言い出せなくなってしまい、シスターに見送られながら、行くあてもなく、とりあえず外に出たのでした。
その時はもう遠出をする気分ではなかったので、近くの町のグアディクスにバスで行ってみました。
グアディクス、グアダラハラ、グアダルキビル等々、このような地名や川の名前はアラビア語の「川」に由来しているそうです。
グアディクスでは大聖堂前の広場の蚤の市を見て、ガイドブックでも有名な洞穴住居を外から見て回りました。
1時間位歩いたら、もう飽きてしまうようなところでした。
刺激満載なだけではなく、うら寂しいこんな風情もアンダルシアなんだなと思いました。
寮に戻ると、早朝の出来事が寮全体に知られていて(あのシスターかっ!)、更には、私がグアディクスをぶらぶら歩いていたという目撃情報も既に寮に届いていたことには辟易しました。
寮では良くも悪くも目立つのは当然で一挙一動に注目されてしまい、知られたくないちょっとしたヘマもすぐ知れ渡り、一時は帰宅恐怖症にもなり、大変なこともかなり多かったです。

2022.10.08

グラナダ大学の講堂で踊った時のこと(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「グラナダ大学の講堂で踊った時のこと」(フェイスブックの過去の日記より)

グラナダ大学付属の外国人コースに留学していた時に、グラナダ大学の講堂でフラメンコをひとりで踊る機会に恵まれました。

学生有志による文化活動発表会のようなもので、毎年(たしか3月後半)開催しているようでした。

出てみる?と言われ、出る!と二つ返事で答えました。

自分の国ではプロのフラメンコギタリストとして活動しているアメリカ人学生が運よく外国人コースにいたので、一緒に参加してくれるよう頼みました。パルマ(手拍子)はフラメンコの先生にお願いしました。

私はフラメンコに関してだけは度胸があるつもりですが、本番前日はあまりの緊張で食事の時にフォークを持つ手も震え、寮生達に驚かれました。
日本では緊張をほぐすために、手の平に「人」という字を3回書いて呑み込む真似をするおまじないがある、と説明しました
緊張をほぐすためのおまじないはスペインにあるのかと聞いたら「無い」と言っていました。

目の前にいる人の反応を気にするのは、日本人ならではでしょうか。

恥ずかしがりやの国民性も関係するかもしれません。

(スペイン人は胸の前で十字を切る仕草はするかもしれませんね)

そして当日。グラナダ大学の立派な講堂は、何百人入っていたのかわかりませんが満員でした。

扇子を持って、グアヒーラという曲を踊りました。

沢山の声援と拍手をもらいました。

参加の記念に、トマス・アクィナスの分厚い立派な本を教授からステージ上で頂きました。

(その本は、かなり長いこと私の部屋に大事にうやうやしく飾られていました)

自分のことでいっぱいいっぱいで、自分の出番が終わったらもう満足感でいっぱいで、他の参加者たちのことは何も覚えていないのですが、トゥナのグループ(伝統的な学生たちの音楽隊)が出演時間にいなくて遅れてきたので演奏できなかったことだけよく覚えています(誰の責任だったのかわかりませんが)。

誰かが気付けばよかったのですが、彼らの残念そうな顔を見てかわいそうに思いました。

この日の経験は、あー思い切ってやって良かった、といまだに何度も思い返します。

心臓に毛が生えていましたね。そのおかげで最高の経験をしました。

貴重な経験が出来て、スペイン人たちの大らかさに本当に感謝しています。

2022.10.08

スペイン留学前の大ピンチ(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「スペイン留学前の大ピンチ」(フェイスブックの過去の日記より)

日本の大学では、スペイン語スペイン文学を専攻していました。

グラナダ大学附属の外国人コース(セントロ·デ·レングアス·モデルナス)への留学希望が受理され、夏からのスペイン留学に向けて、3年生に進級してから一層勉強とフラメンコに頑張っていました。

私は成績優秀でそのうえ品行方正だったので、返金不要の奨学金をもらえることになりました(自慢ですけど)。

学するならそこに住みたいと高校生の時からずっと決めていたグラナダの女子寮にも入れることになりました。

5月末か6月初めに教授と廊下ですれ違った時、「きょうかしょ届いた?」と聞かれました。

「教科書?まだなんですけど」と答えたところ、

「教科書でなくて許·可·書!自分で入学許可書を取り寄せるのよ!7月初めの教授会に間に合わないといけないのよ!」とおっしゃるではありませんか。

「そ、その手続き、自分でやるんだったんでしたか!」

私は言われたことが信じられなくてそれ以上声も出ず、教授は呆れて開いた口が塞がらない、という様子でした。

夏休みの間はグラナダにある私立の語学学校に通う計画で、そちらの手続きは自分でやることと理解していたので自分で進めていたのですが、グラナダ大学の手続きについてはてっきり大学側がやってくれるものだと・・・。

メールが一般的でなかったのでグラナダ大学にファックスで書類請求しました。意外とすぐに書類が届いたのでほっとしたのですが、、全てフランス語で書かれた書類でした。日本人留学生に対してなのに。なんていい加減。

さすがグラナダ、愛すべきグラナダ、と感心している場合ではなく怒っている暇もないので、書類請求したらフランス語の書類が届きましたと教授に報告に行って、そのフランス語の書類に記入をして返送しました。

どういう手続きをしたのか全く覚えていないのですが、スペイン大使館へ行ったり銀行へ行ったりてんやわんやでした。

そして驚異的なスピードで準備を完了させ、夏休みに入ったと同時にスペインへと飛び出しました。

2022.10.08

目は口ほどに・・(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

(ヨーロッパではコロナ禍でもマスクの着用を嫌がる人が多いと聞き、そういえばと思い当たることを書いた、コロナ禍の2021年頃の投稿)

「目は口ほどに···」(フェイスブックの過去の日記より)

ヨーロッパの人たちにとってマスクは身近なものでないようですね。

グラナダの女子寮のことを思い出しました。
寮の新入生歓迎会は、新入生が必ず受けなければならない試練でした。
歓迎会では、新入生は上級生達の前でたった1人で歌ったり踊ったり何か一つ芸をやらないとなりませんでした(私はセビジャーナスを踊りました)。
歓迎会会場の寮の広い玄関ホールに行くと、黒ずくめの服を着た上級生達が更にサングラスをかけてスカーフ等で口許を隠し、あぐらをかいて車座で新入生を待ち構えていました。
今思い出してもゾッとします。
上級生たちはわざと最初は無反応でシーンとしていて、その真ん中に新入生が1人ずつ出て行って、名前を言ってから、その冷え切った雰囲気の中で、歌ったり踊ったりし始めるのです。
(でも後半は、上級生たちも意地悪なお芝居をやめて一気に盛り上げるという決まった流れがありました。そして毎回最初の空気に戻るのです)
上級生達もこの恥ずかしさを過去に経験済みなので、新入生に同情してくれる人はスカーフからこっそり口を見せてニコッとしてくれました。
サングラスの方が迫力あって怖いんですけど!と私は思っていました。
「目は口ほどにものを言う」の文化との違いかなと思いました。

2022.10.08

文化の違い、マナーの違い(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

  「文化の違いとマナーの違い。 腕はもう絶対に組みません。」(フェイスブックの過去の日記より)

1996年から1997年に、グラナダ大学付属の外国人コース(セントロ·デ·レングアス·モデルナス)に通いました。
必修科目の他にいろいろな授業を選べました。
ある授業中、先生が急に説明を止めて「あなたのその態度は何ですか。私の授業が気に入らないのですか」と顔を赤くして怒り出しました。先生が指差す先は····、なんと私!
「そんな風に腕組んで···」と言うのを聞いて自分の座り方にハッとしました。
「こっこっこれは私の癖でして、特別な意味はありません。すみません」と慌てて謝りました。
自分の体の前で両腕を組む仕草が、相手を拒絶する態度に見られてしまったのです(日本でも良い印象与えませんが)。
人前で厳しく言われて恥ずかしかったですし、悪気がないのに誤解されショックでした。
何気ない仕草に要注意です。
授業中に脚を組んで座っていても脚を投げ出して座っていても行儀悪いと注意されず、
小さな子供でもないのにボールペンをくわえたり噛んだりしていても何も言われず、
暑いといって教室でいきなりTシャツを脱いでほとんど水着のような格好になっても注意されないのに、
心を閉ざしていると思われてしまう態度が、いちばん悪い授業態度なんだと痛感しました。

2022.10.08

グラナダのバスツアーでの出来事(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

 「バスツアーでの出来事」(フェイスブックの過去の日記より)

グラナダ留学中に、スペイン人たちの中に入ってバス旅行をしました。
日本人の友達と参加しました。
添乗員が盛り上げながら、車内では乗客たちが笑い話(chiste)を次々と披露しあっていました。
何言ってるのかわからなくても、みんなでマイクを回し合って和やかな雰囲気。
そのうちにあるひとりが「ではあなたたち日本人もchisteをひとつ···」と。
ええっ!
そんなこと日本語でだって無理。
困ったことになったと思っていたら友達がマイクを受け取りました。
スペイン人たちはお喋りを止めて、まだ喋ってる人に対しては注意して、全身で人の話を聴く姿勢に。
友達は、日本人留学生たちがスペインで直面する驚きや戸惑いを面白く話しました。
話が終わると大きな反応と暖かい拍手。
心を開けばこうやって受け入れられるんだなあと思いました。
(持ちネタは用意しておくと良いでしょう。)

2022.10.08

日本とスペイン、ミサのこと(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

  「日本とスペイン、ミサのこと」(フェイスブックの過去の日記より)

私が小学校から通っていたカトリックの学校では全校ミサが年に数回ありました
(母体の修道会がスペインにある学校でした。縁とは不思議)。
ミサの中で、人類愛と平和を願うため左右の人と微笑みながら会釈をし合う場面があります。
厳かなミサの中でこの時だけ雰囲気が和む不思議な儀式です。
小学校低学年のうちはみんな面白がってお互いペコペコしあって可愛いのですが、成長するにつれて恥ずかしくなって照れ笑いするだけだったり冷めた態度をとったりしていました。
グラナダ留学中にイギリス人の友達からミサに行ってみようと誘われました。
私は信者でないけどいいのかと聞いたら大丈夫だと言われたので一緒にミサに行きました。
参列者同士で挨拶し合う場面では、スペインなのでハグとキスをしました。
両隣だけでなく、隣の隣のその隣の人、前後、斜めの人たちともワイワイと抱擁と接吻を交わしたので、この国で引っ込み思案だったらミサにも出られないんだなと思いました。
文化が違うなあと痛感しました。
いろいろな国ではコロナの影響でハグやキスの挨拶に替わる別の挨拶が取り入れられていますが(肘をくっつけ合う等)、キスとハグが出来ないことは、日本人が想像する以上に悲しく寂しいことなのではないかなと思います。
(2021年、コロナ禍の時の投稿)

2022.10.08

グラナダ大学外国人コースの初日(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

「グラナダ大学外国人コースの初日」(フェイスブックの過去の日記より)

9月に入ったのでグラナダ大学付属の外国人コースの入学日(1996年)のことを思い出しました。
会話クラスを決めるため、先生との一対一のレベル分け面接がありました。
攻めの姿勢でこの留学生活を送ろうと決心して、普段の自分の倍しゃべる気持ちで面接に臨みました。
でも面接の最後に先生から「口数が少ないようですね」と言われて、いきなり出鼻をくじかれました。
この国では一体どれだけしゃべれば普通レベルなのだろうかと思いました。
面接の結果、わりと上のクラスに入りました。大変だったけれど良く頑張ったと思います。
9月に入り、うちの子供たちも新学期が始まりました。
コロナでいろいろな行事が中止になり、頑張って練習してきたことを競い合ったり発表したりする機会がなくなってしまいました。

毎日小さな楽しみを見つけて過ごして、大きな目標を諦めないでほしいです。 

2022.10.08

グラナダ、花についてのエピソード(フラメンコブログ フラメンコ教室エルソル)

  「グラナダ、花についてのエピソード」(フェイスブックの過去の日記より)

1996年にグラナダに留学して、女子寮で生活しました。
寮生100人はスペイン各地から来ていて、グラナダ大学の大学生でした。7割くらいがアンダルシア出身でした。
寮生活2日目、ひとりの1年生の子が「彼からプレゼントされた」と花を見せてくれました。
仏様の花だ...。日本ではお仏壇用に売られている黄色い大きい菊が一輪でした。
ビックリしたのですが、先入観を持たずに見れば、確かに明るく社交的な人にピッタリなきれいな花だと思いました。
いろいろなことが国によって違うんだと思い知りました。先入観を持っていたらもったいないと思いました。
そういえば、大学から寮に帰ってくる時に、一輪の赤いバラを持ち帰ってくる子が結構多かったです。
スペイン人の男子学生はロマンチックですねえ。
日本人はどうですか?私は学生時代にそういう経験がなかったので何も言えません。
もうひとつのエピソード。
スペイン人の男子高校生に一目惚れをされ、鉢植えの花をプレゼントされた女子留学生の友達がいました。
「あなたの部屋の窓辺にこの花を置いてほしい。僕が毎日見れるように」と言って渡されたそうです。
情熱的で美しく、そのままフラメンコの歌になりそうですね。うらやましかった・・・。
どの花のエピソードにも私自身は無関係、ということが残念なのですが、当時のスペインの美しい風景だったなと思います。

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